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Posted by あしたさぬき.JP at

2011年11月01日

続けてほしいなぁ…

背が高いnobu君 今までにしてきた仕事は流れ作業が主だった
何回もいろんな仕事に挑戦したが 2日ないし1週間で行かなくなる
たった半日の仕事さえ行かなくなって行った振りを平気でする

チェーンを掛けて室内にいた彼と話を何度もした なんで続けようとしないのか

仕事を無断欠勤して4日目 謝りの電話をして再び働きだした
お昼仕事を終えて帰ってきた顔は顔は明るい!
おばちゃん達にいろいろ注意されつづけてるけどがんばる って言ってその顔はもう一度信じて励まして見守りましょうと思った
  


Posted by ゐとの at 01:07Comments(2)

2011年10月30日

故郷に戻る

釧路に着いたとの電話が入りました
竹ジィのお骨は30数年ぶりに戻ることができました
当時残してきた奥さんと娘さんたちにはいずれ報せるのかもしれませんが今は小さな骨壺が竹ジィのすぐ下の妹さんのリュックサックの中に収まり四国から北海道へと移動した1日です
  


Posted by ゐとの at 18:49Comments(0)

2011年10月29日

竹ジィ・・よかったねぇぇ

 1月に亡くなった竹ジィさんの妹さんご夫婦が娘さんと共に高松入りです。
 三十年前に釧路から居なくなって以来、音信普通だったということでした。
 七人兄妹の六番目の妹さん、竹ジィはそのすぐ上だったって、今はその妹さんだけに
 なってしまったということです。

 どこでどのように生活していたのかと聞かれましたが、私も知り合った時にはワゴン車に
 生活道具一式での暮らしをしていたことくらいしか知りません。
 
 竹ジィの話の中では、故郷を捨てたので話すことも進んではしなかったのです。
 私達も、過去は聞かないことにしていたので、たまに話していたことを伝えるしかありません。
 ワインが好きで、手先が器用で、頑固で・・・・

 肉体は滅んでも魂はあるのです。とよく言っていました。

 帰ることも考えていなかったジィ、よかったねぇ~
 明後日は飛行機で釧路に戻れますよ。
 そして、お葬式を行ってくれたご住職の房さんが法名も付けてくださいました。
 房さんは私達に関わる一人ぼっちで亡くなって行った人たちにお経をあげてくださいます。
 すべてボランティアです。
 ・・・世の中 こんな粋なご住職さんもいるんです・・・
 
 竹ジィ 本当に故郷に戻れてよかったですね。
 我が家の仏壇に一番に座ったジィのお骨が今日旅たちました。
 もう戻れないとジィが云っていたけれども、戻れたね。
 
 よかったよかった・・
  


Posted by ゐとの at 00:55Comments(1)

2011年10月28日

希望退院記念日



ガン見つかってから約一年余りようやく手術にたどり着いた
精神的に沢山の薬を飲んで過ごしていた希望手術後13こもあったのにはびっくり…
一年前だったらこんなにも増えてなかったのに でも 命広いしました よかった!
  


Posted by ゐとの at 21:08Comments(0)

2011年10月26日

就職決まりました

yo君は毎日毎日 面接を入れています スーツは隣のお兄さんが着れなくなったのがぴったりでしたのでそれを着て は我が家のすーさん 末娘 のを譲り受けての出で立ちは しっかりしてきた姿です
病院の清掃の仕事が決まり
早速今朝は早起きしての仕事です

二時間の仕事が終わりました って報告がありました
がんばってねぇ

  


Posted by ゐとの at 12:15Comments(0)

2011年10月20日

YOくん 明日面接です。

 京都から戻ったというか、行くところがなくてついて帰ったかもしれない彼の変化です。

 アパートは前回の保護申請をしていたところには戻れないので、次を探しました。

 彼が、出て行ってから二週間はそのままにしていましたが、走って逃げたその日に

 生活保護申請がおりたという知らせがあったんです。

 それも知らずに彼は歩き歩きで関西へと行ったわけですが、本人が受け取りに行かないと

 お金はもらえません。

 家主さんに頭を下げ事情を話して、部屋の片づけをしてアパートに入っていた日割り家賃も

 支払えないので、メンバーで掃除もしていつでも次の人が入れるようにしてそのアパートは

 引き払ってしまっていて、・・・・

 ・・・という事情から市役所ではさかのぼってまでは生活保護の受給にはなりませんでしたが


 新たに申請を受け付けてくれました。

 次のアパートには同じような環境だった人たちが住んでいます。

 YO君がすぐに休めることが出来るようにと、ベットも運び、布団を揃え、炊飯器も同じアパートの

 住人が持ってきてくれたり、数時間で彼の素敵な部屋が出来上がりました。

 僕に出来ることがあれば、何でも手伝いたいです。っていう彼は、前回九月に来た時とは違って

 自ら進んで何でもしたい!
 
   という気持ちが良く伝わってきます。

 頑張ってきちんと自分の考えも言う様になりました。

 まだ23才 これから自立に向かって進んでいけることを 応援しながら見守っていこうと思っています。
 彼は、次のアパートに入り次の日からハローワークに行き、明日の面接にこぎつきました。

   


Posted by ゐとの at 23:36Comments(0)

2011年10月18日

再出発のyo君・空にいったよしだおかあさん


yo君は、高松で再出発です。

他人から叱られて突然走り出して、二週間あまり
どこを探しても居なかった。

栄養失調で倒れて山科の病院経由警察より連絡があった。
夜中に迎えに行き、今日で3日目
ようやく笑顔もでで新しいアパートで食事も自分で作っていた。

これからだねぇぇ
何で急に消えたのか?と聞いたら
初めて他人から叱られてびっくりしてわけが分からなくなり
走り出したと言う。
ヒッチハイクで岡山に、それから歩いて西成までの道のりは大変だったみたいです。
西成で手配師に声をかけられて、日雇い仕事をして・・・

身内は居ないたった一人ぼっち・・・でも仲間が出来たから頑張れると思うよ。

yo君は今日顔も知らないよしだおかあさんの葬式についてきました。
7月アパートで独りベッドに横たわったままで食べる事もできなくて、救急搬送も
断り、ようやく病院にはいったよしだおかあさんのこの世の去り方も彼女らしかった。
なくなる数日前にはみんなの顔を見て冗談も言っていた。
入院中に一度自宅アパートに帰るといって聞かなかった。
何とか自宅に戻り、2日間身辺整理を済ませ、再び病院に入った。

末期の肺がんで、手遅れでしたが、言いたいことしたいこと、自分で決めた去り方を
きちんとドクターに説明して延命処置はしないということにした。

とても明るい顔でさよならをしました。

今夜はお骨を持って帰りました。
いづれ遠くに居る娘さんが迎えに来てくれると思いたいので、無縁仏にはさせませんよ。

よしだおかあさん 出会ったときも壮絶だったけれどもあなたは自分をしっかりと持っていたと
思います。

死と向き合って行く生き方 私も真似したいです。

ここ数日の出来事でした。  


Posted by ゐとの at 22:16Comments(0)

2011年10月16日

今朝は清水寺です




夜中に電話
京都山科の病院に運び込まれたyo君
全国捜索を出していたために連絡がありました
栄養失調の為に倒れたそうです

高松でようやく住めるようになったのに着の身着のままでいなくなり三週間あまり
歩いて西成まで行った先 手配師に声をかけられ大津の現場で日雇い生活 1日三千円もらい蛸部屋での生活にくたびれはて職もクビになり 三日食べずに倒れたそうです

高松に連れて帰る途中 清水寺が近くにあったから参拝そして 高速にのり 到着なり



  


Posted by ゐとの at 11:17Comments(1)

2011年10月14日

Yさんの部屋の片付け終わりました。

働き始めたばかりの職場で心筋梗塞のため亡くなってしまったYさんの部屋の片付けも終りました。
真っ直ぐな真面目な性格の方だったのだということもよく分かる部屋です。

職場に挨拶に行き、彼の自転車を引き上げ数日間働いたお給料を預かり、勤務中の様子を聞きました。
面接に来られた時の笑顔と真面目そうな態度ですぐに採用になったこと。
翌日から仕事に来られて、遅刻もなく仕事も熱心でしたと云われました。

身内については誰も居ないと言っていたと・・・

亡くなってから探し連絡をしても、身内に引き取り拒否をされてしまいました。
北海道稚内出身だということでした.
お骨は高松市の無縁仏として葬られることになります。
もしかして、二十年前に別れた息子さんが、ひょっとして迎えに来てくれれば・・と
少しの希望を持っています。
Yさんの部屋はすっかり片付きました。
残された荷物の中の携帯電話が鳴りました。

Yさんが亡くなった事を告げると、先日仕事についたと云ううれしい電話があったばかりだったのに・・・
と悲しそうです。

携帯電話はまだ電源を入れたままです。
Yさんを知っている誰かが携帯電話かけた時に繋がらなければ知らせようがないですからね、
プリペートカードが切れるまではつないでおきましょう・・  


Posted by ゐとの at 03:15Comments(0)

2011年10月14日

希望



毎日 必ず言うんです
バイバイ またあしたね

バイバイ 明日の朝ね
バイバイ

彼女は屈託のないまるで幼稚園に通う子供のように笑います
知り合った時のイメージとはまったく違い いつも何処に行くにも手を繋ぎます

独りで18からどうやって生きてきたんだろうか
彼女は母親にきちんとしつけられて大きくなっているんだと感じる事もしばしばある

彼女は来週
とても大きな試練を受けようとしている

彼女の手を繋ぎ 彼女と寄り添い 少しでも早く回復にむけて進みたいと思います
  


Posted by ゐとの at 00:04Comments(0)

2011年10月11日

生きる灯火



病院から連絡がありました
これ以上しんどさが強くて起きているのがてらくなるとおもいますが 本人が痛みを和らげたいと話されたら そのように処置をしますが そうなるときちんと今までのように会話は成り立たないとおもいます、
あと数日かもしれませんがそのようにご理解お願いします
って 彼女は朝まではぐったりでしたがお昼私たち数名がベッドを囲んで楽しく話をしていたら和に入り少し元気そうになりました
今日が最後ね会話かもしれません
でも 彼女はニコニコ顔でお昼ご飯を前に少しづつ口に運んでいました

また家族ではない人達に見守られながら旅立つ準備を彼女なりに始めたところです
  


Posted by ゐとの at 22:48Comments(0)

2011年10月09日

いよいよ今月


今年の初めに亡くなった竹ジィ

とても頑固でした。
北海道を出て30年、たどり着いたのが高松でした。

竹ジィが話す言葉でしかその人生は語られなかったけれども
五十歳の時、商売が駄目になって北海道の自宅を後にしたしたって聞きました。
東京に出て働き車を手に入れ、その車で南へ南へと走ったそうです。
九州にたどり着き、何年間かは九州で過ごしていました。
期限切れの免許証の住所は九州です。

四国に渡ってきたのがいつなのかはわかりません。
三木町のはずれのホームセンター駐車場で倒れていました。

県の福祉課の方が病院の手配、退院後のアパートの手配などに関わり
私達と知り合いになったのです。

退院後の竹ジィは、アパートでの独り暮らしが始まりました。
白い色がすすこけたようなワゴン車には、生活用品がぎっしりです。
この車で九州から四国を走り回っていたのです。

竹ジィの一生が四国遍路の途中で独り寂しく終るのではなくて
心許せる人に囲まれて旅立ったのも、竹ジィの頑固の中の優しい心を
持った人柄だったのかもしれません。

竹ジィのお骨は生まれ故郷の北海道に戻ることが出来ます。
いよいよです。
この月末には、北海道釧路から竹ジィの妹さん夫婦が引き取りに来られます。

無縁仏になるはずだったのに、竹ジィのお骨はジィのご先祖の墓に入ることが出来るそうです。

口癖のように言っていたねぇ 肉体は滅びても魂はのこっとるのです。
いつも両手を胸で合わせては、ありがとうございます。って・・・

もうすぐですよ。
竹ジィの作った木製のおもちゃも持って帰ってもらいますね。
竹ジィと一緒に旅してきたボストンバッグと様々な本達も一緒にね。

よかったね・  


Posted by ゐとの at 22:41Comments(1)

2011年10月08日

戸籍なく住所もないなんてねぇ〜其の一



東京日野市から派遣の仕事で宮崎に行き 仕事が無くなり 転々と流れ流れて高松にたどり着いた若者がいました
名前はハネダジュン
穴のあいた白だったであろうTシャツ ぐれーのズボン
持ち物は黒の手提げふたつ
ボサボサ頭 古ぼけた黒ぶちメガネ 百キロはないにしても ぼてぼてと歩く
目を合わすことはあまりなく 喘息の持病があるといつも苦しそうに話す癖
アパートに置きメモ一枚 いなくなって三日目
  


Posted by ゐとの at 21:36Comments(2)

2011年10月03日

また独りで…



働き始めて三日目
急に倒れて還らぬ人となりました
アパート暮らしも慣れ暑い夏も乗り越え
いつも訪問すると ニコニコ顔で昭和のにおいてのする部屋にいました
亡くなってしまったのに身内は受け取り拒否です
見送りはたずさわった数人ですが淋しくないように…明日です
  


Posted by ゐとの at 21:27Comments(0)

2011年09月19日

咲きました彼岸花



毎年 同じ場所 気が付くと緑の茎 気が付くと茎の先ほどにふくらみ 気が付くと真っ赤な花が咲き誇る

毎年何にも変わらない彼岸花

今月二人の若者をサポートしはじめました
東大阪出身
東京〜派遣先宮崎〜
なんで高松に留まるのか…知り合いも頼る人も 誰もいないから…なんとか生きていく場所として私達は知り合えたが 身分証明すらない 出身地に彼らを問い合わせ彼らが彼らがだと解りさえすれば不安を抱える日々を解消できると思うのです
まだまだ寄り添わなくては難しい彼らです 来年の今頃にはしっかり此処で働き生きていけるようになりますように
  


Posted by ゐとの at 09:26Comments(0)

2011年09月12日

秋になって…23歳の彼



一週間前に知人を頼り関西からなけなしの一万円を手に丸亀まで来てお金が尽きたので 歩きで高松にたどり着きました
たった一人の身内である父親が亡くなり派遣の仕事も無くなり寮暮らしもできなくなったそうですが
背中を丸め歯もボロボロの彼が前を向き歩き出すために 動き出します 彼の前を歩き出している10歳年上のN君 頼んだよ
  


Posted by ゐとの at 07:56Comments(2)

2011年08月29日

来てくれますよ




今年初めに亡くなった竹じぃ
お骨だけは無縁仏にしたくなかった だから我が家にきた
朝晩 挨拶しながら半年も過ぎ 来年は東本願寺に納める予定でしたが 遠く北海道釧路から再来月妹さんご夫婦が引き取りに来られることになりました
三十年ぶりに生まれ故郷にかえれますね
よかった!
  


Posted by ゐとの at 22:11Comments(0)

2011年08月12日

大阪にて

昨日 大阪の救急救命からでした
公園のベンチで倒れて搬送されたというおじさん
着るものを用意して高速道路飛ばしやってきました

本人さてさて 今後はどう生きていきたいかなぁ
  


Posted by ゐとの at 12:22Comments(2)

2011年08月02日

塵のアパート


アパートの管理会社からの電話

水道が流れっぱなしで もしかしたら亡くなってるかもしれないから立ち会いお願いします って…

開けたら床が1メートルは高くなってますよ
全て新聞紙やら雑誌 これは大変だけど 本人は何処で寝るんだろう?
  


Posted by ゐとの at 19:18Comments(0)

2011年08月02日



池田じぃは逝ってしまいました
見送りは数人ですが 葬儀場内では喪服も来てない私たち きっと浮いていたでしょう。
小さな骨壺に入りました
最後に長男次男と電話をいれましたが 赤の他人です って言われてしまいました

きっと生きてる元気な時代に家族に哀しい思いをさせたんでしょう…
93才にもう少しでなるはずのじぃの生きざまはどのように過ぎていったのでしょうか

大連に戦争で行った話も懐かしそうに話してました 骨になった身体には 太いボルトがいくつも付いてました
手首の辺りに娘達がプレゼントした石のブレスレットがありました
まだ温かい骨壺を今夜は持って帰り 1月に亡くなった竹じぃと共に並べてあげようと思います。
  


Posted by ゐとの at 19:10Comments(0)