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Posted by あしたさぬき.JP at

2011年05月29日

仲間

少し足が不自由な人がアパートに入りました。
荷物もほとんどありません。

洗濯機 冷蔵庫 たんす ベッド 学習机と椅子 
とりあえず揃えました。

アパートに行くと、一人椅子に座って何からすればいいのか・・
途方にくれています。

NさんとSちゃんさんは、
トイレットペーパーとテッシュペーパーを持ってこんと!
Iくん数日前に入居したおじさんと仲良くなったので、おじさんに洗濯機を届けてくるわ。
帰ってきたらすぐに手伝うけん・・と急いで出かけました。
Sちゃんさん おんなじ年だから 同級生ですねぇぇ~  と会話のきっかけを見つけたみたい。

布団も無い?
ベッドは用意して組み立てたけれども、布団がなくては寝られんわぁ!!!!!
どこかになかったかなぁ?
皆で考えていると、Zさんが、みんなの家に一組置いてある。運ぶわ・

あ!電気とガス 開けてないーーEちゃん 早速電話

足りないものはあとはなんかなぁ?

お米がないってよ。 炊飯器どこかにあったか?
今日もらったばかりのがあるから、洗うわ。
お米たちまちEちゃんの頂戴!
 いいよ ・・・
Eちゃんのお米は10㌔買っても自分で食べれるのはほんの少し
手っ取り早くお米を調達できるのは、一番近くにすむEちゃんの部屋ですからぁぁ


あれよこれよで夕方にはなんとか住居らしくなった感じ・・・
テレビがあったら寂しくないよなぁぁ~
どっかにないか?

これもまた みんなの家にあるわ。。。。取ってくるわ。
アンテナつないで、チャンネルセットはOくん
六畳の和室に 座卓も持ってくわ。
座布団もほしいなぁぁ

携帯電話もないので、連絡方法がないからさてさてどうする?
次の日、気になったそれぞれは アパートに訪問していた。
炊飯器でお米炊いたけれど、カビ臭くて食べれなかったっていうとるぞ
それでどうしんたん?
自分の家の持っていった。 Sちゃんさん さすが同級生?(笑)
台所の洗う桶もない スポンジも用意した。

食料品を買いに行く足は、この雨なので難しく、Iくん とっぽ号の出陣!!!
たちまちの貸し出し金五千円は、食料品に変わり、(このアパートに似つかないけれども)
大きな三段の冷蔵庫に結構いっぱいになったよ、との報告

今日も朝から大雨 チームチャリンコの面々は こんな雨もなんのその
困っている人のための隣人になっている。

週明けには18才妊婦さんが一人でこどもを産んで育てるというので、部屋の準備だ!
そのためのアパートの片付けと掃除をSちゃんさんKさん頑張っている。
Kさん就職して夜勤明けでやってきます。

このKさん 三ヶ月間車中生活でした。
アパートに入ってまもなく、仕事にたどり着くことができました。
真面目で笑顔が素敵に彼は、どの職場に行っても大丈夫ですねぇぇ

仲間が増えていく こんな頼もしいことはないねぇ 一人ではないよ・・・
みんながいるから生きていけるんだって感じですよねぇぇ  


Posted by ゐとの at 09:24Comments(0)

2011年05月27日

嬉しい電話

もしもし・・・・
名前を聞いてびっくりです。
中央公園で16日間水だけを口にしてベンチで寝ていた人からです。

誰にも声をかけられなかったと初めて話した時の事です。
水だけでどれくらい持つものかって、いやぁよく持ちましたね。
でも もう限界かもしれないです。

数ヶ月前に路上生活からアパートに入ったおじさんから、中央公園にずっと寝ている人がいる。
との知らせを受けて行ったときの事です。
16日間誰にも声をかけられることなく、水しか口にしていなかったと。。。
ベンチで横たわっていたけれども起き上がると心なしかボーっとしてしました。

今までの生活やこれからの事をいろいろ話しました。
このまま誰も声をかけなければ、起き上がることもなく横たわっていたみたいです。

何をしたいか、どうしたいのか、いろいろと話をしました。
仕事に就きたいです。
住所がなければ仕事もしっかりしたものには就けないだろうしね。
究極 今生活保護を受け住居確保してから仕事を探す方法もあると説明したら
生活保護は身体が不自由で仕事ができない
人が受けるものだから、自分は頑張ってみる。
と言いました。
本当に困っていたら、受けることができる制度ですよ。と説明もして今後を考えるようにしました。

そんな数日の間には、彼のベンチ生活を知らせてくれたおじさんが、ご飯を炊いて持ってきて話をしたり
タバコを分け合ったり、数年前まで路上生活していた人達が気にかけて飲み物や食べ物を持ってきたり
そんな中には、手配師と呼ばれる仕事を与えて住居も与えるということをしている人達も来ました。
千円を渡し、仕事があるから東京に行こう!と声をかけるのです。
これにまんまと乗ると大変です。1日千円で働かせる仕組みですから・・・
手配師だけには捕まらないようにと、各人が声をそろえて言っていたので、上手く逃げ切ることもできました。

食べ物を口にするとしっかりとした口調にもなり、笑い顔も出るようになりました。
今後をまじめに考えている矢先に、大雨が降った日から中央公園のベンチから姿が消え、
地下にも、市内からも姿が消えてしまいました。
みんな気にかけて探しましたがいません。

居なくなって4日目、電話がありました。

いろいろあり実家に戻ってるとの事
親とも話すことができ、とりあえず此処で仕事を探して頑張ってみる。
落ち着いたら挨拶に高松に行きます。との嬉しい報告です。

お世話になった人たちに電話しますと言うことでした。

よかったよかった  新たなる出発に 遠く高松から皆で応援しましょ!
  


Posted by ゐとの at 06:17Comments(0)

2011年05月26日

やっぱり思いやりでしょう

この数日間は、ちょっと病んでいましたが・・・
毎朝集まる仲間とのたわいもない話や活動をしながら思いました
私たちが出きることは、目の前で倒れている人、倒れかけている人が
何を望んでいるかを知り、できる限りの手助けをすること

ただそれだけのことなんだって事

今まで何年も続けてきて来たことを見失っていたように思う
弁護士から頼まれたから、警察から頼まれたから、行政から頼まれたから
そんなことはどうでもいいことであって、その一人の人が困っている問題を
一緒に考えて解決の道を探すお手伝いができることをしなればと・・

目線を同じにしなければ理解できないのではないのか・・
心を開いてもらうには自分の心から開くことをしなければ・・

まだまだやらなければいけないことが沢山あると思う

以前ホームレスだったSさんが、一年余り仕事を探すでもなく、人との接触も避け
電気も止められとうとう水道も止められる手前まで来ていた
ホームレスからアパートに入り、仕事にも就いたのに、辞めてしまっていた
アパートの家賃も滞っていた
生活保護も止められていた

そのSさんが路上生活で困っている時に声をかけ、自分と同じ仕事を紹介したのがNさん
Nさんは、孤立しきっていたSさんに訪問を何度も何度もしていた
自分のお米を届けたとき、しまった! 米は持っていったが、電気を止められとるので
ご飯が炊けんかったわ・・とパンを届けた・・
仕事を探そうぜ・・みんなの所に出てこいよぉ・・
なんとか 孤独から抜け出すように努力を重ねていた

一週間ほど前からSさんの顔を外で見るようになった
昨日、みんなの所に現れた!
住所を高松に移し次のステップを考えることになった

Nさんの努力だ!
Nさんも以前はホームレスで高松駅にいた人だった
仕事がなくなり、どこにもいけず日々を高松駅で過ごしていた
そのNさんを見つけて、声をかけ自立への道を探す数日間 自分のワンルームの部屋に
住まわせ、食事も一緒にしながら過ごしたのが、Fさん・・

Fさんはちょっとお酒には弱いが、人情が厚くいつもニコニコ顔でひょこひょこと歩き
みんなの面倒を買って出る
Fさんも以前は職を失い家族とも離れ離れでした

高松で長年生きてきた彼は、夜の世界も昼の世界もなぜかよく知っている
助けてきた人それぞれの生活を定期的に見てくれている
また新たな助けなければいけない人にも声をかけサポートが出きるようになって来た

新たなねずみ講!と笑いながら言う
幸せになるためのねずみなら 沢山子供を増やせばいいかも・・・

昨日 ぽつりとFさんが言った言葉はもっともだと・・・

助けてアパートに入ってから死ぬまでがわしらのすることやないかなぁ~
助けてアパートに入ってそれからが長いんやでぇ~
最初だけ訪問してそれで終ったらいかんのや!

そうれは正しい・・・さて初心に戻ってできることをできるかぎり続けていきましょ!






  


Posted by ゐとの at 07:14Comments(2)

2011年05月22日

呟きかなぁぁ

呟きでもないかなぁぁ
とうとう言ってしまっただけのこと

私の原点に戻ろう

私・
私は何をする人ぞ?
私・
ちよっとおせっかいなだけの人
私・
むかしむかし、中学生の頃
在日韓国人の女の子と知り合った
母はあまり良い顔をしなかった
なんで?
   なんで?
友達になって仲良くなった
母も仲良くなった

ハンセン病の島にワークキャンプに行く と言った
母はなんでそんなとこいくの?
毎年行った
島のおじさんやおばさんと仲良くなった

新婚旅行先をその島に決めた
両親は何も言わなくなっていた

島のおじさんが、発病前に暮らしていた大阪に行きたいと言った
二泊コースの旅を計画した
一泊目は実家を選んだ
母はびっくりした・・父もあきれていたと思う
初めて会う・戸惑いの中、それでも打ち解けようとした

母はその後、毎年年賀状を出しおじさんたちとの交流も始まった
母はその後、別のハンセン病患者さんの島を訪れるようになった・・

身寄りのない女の子を家族にした
両親は驚きを隠せなかった
両親は娘の生んだ子供以外は孫としては認めることをしなかった
数年後二十歳になったその子に、成人式の祝いを用意してくれていた
田舎に帰る度、父は頭を撫でながらこの子が一番かわいいわぃ!と甘えさせてくれた

妹が私をその同じ場所に居ないもののようにした
私の生き方を嫌いで仕方がないと言う

ある日 随分前に聞かれたことがあった
 おねぇちゃんはなんで身寄りのない人や路上の人をたすけるん?
・・・
もしね お父さんが道端で倒れていたらどうする?
助けるやろ?
・・・
 お父さんはここに元気でおるやん
・・・
そやけど、もし・・もしもやでお父さんだったら?
息子だったら?
・・・
 そんなことないわ 倒れとらんもん おかしいんちがう?
・・・

二人しか居ない姉妹だから仲良くしてほしいと母は言う
私は好き勝手して生きているように見えると言う
自由な生き方・・
そうかもしれない、そう見えるのならそれでもいいや!

父からの小さな手紙を渡された

自分達がよかれと信じて取っている現実を相手になじられても、
怒りに燃えて対処すれば何時になっても理解は得られるものではない
いさかいは自分を小さくし不快さを増すだけです。
理解を求める努力も大切です。
こと更ではなく、自然に・・・・

長年良かれと築いてきた小さなグループを辞めた
これから 私は何をするのか・・・
今までと変わらない事を自然にしていけばよいのでしないかと
なにも変わらない今までと同じ事をしていけばよいのだ!


同じ思いを持ったグループの面々とはさようならって出てきたけれども
同じ思いだから、グループから出ても同じ事をできるんだわ

目線を少し変えてみようと思う

私の原点に戻って、楽しく明るくそして目立たず小さくても少しの手を差し伸べれるようにと

長い呟きになってしまったわぁぁぁ  今日の反省とけじめと出発に!
 乾杯  アップ
  


Posted by ゐとの at 02:41Comments(2)

2011年05月20日

忘れてはいけない歴史が消えていく

天国では優遇されるはずです

ハンセン病になり、戸籍も抹消されるくらい嫌がられる

本人だけでなく家族も世間からの迫害や非難を受け、ひっそりと暮らしてきた

もう この大島青松園には101人だけになった

計り知れないくらいの苦しみや嘆き絶望を私は想像すらできない

分かち合うこともできない

この悲しい歴史は、彼らがいなくなってしまと消えてしまうのでは悲しすぎる

瀬戸内海の小さな大島

芸術祭でたくさんの人が訪れた大島

もう101人の島になってしまった大島

目を向けて心を寄せて今までの悲しい歴史をしっかりと心に刻みたい

天国では優遇されるはずです・・

この言葉は、病に臥している方がはなよさんにおくった言葉

この世ではどうにもならなかった思いではないかと・・・

 
  


Posted by ゐとの at 07:08Comments(0)

2011年05月16日

1920~2011

八歳でここに来たはなよは、人生すべてをここで過ごした。

ハンセン病という病のために、すべてをここで暮らすことになった。

子供時代  乙女時代  新婚生活 老後

誰もが通るこの過程は、誰もが通る過程ではなかった。

二歳で母親と引き裂かれ、大阪に養女に出された。

その後発病して、父親と姉によってここに送られてきた。

母親は先にここに来ていたことも、ここに来て知った。

はなよの歌う賛美歌は高い声の澄んだ声

はなよはいつも、すすむのそばに居た。

小さな身体で精一杯の声を出しおっさん おっさんといつも呼ぶ

特に晩年目が見えなくなってからはおっさんと呼ぶ回数も増えた。



すすむの具合が悪くなり、病棟に居る時間が長くなると

自分の治療もそこそこに病棟に通う日々。

すすむははなよが来るのをいつも待った。

すすむの目もとうとう見えなくなった。

はなこぉ はなこぉ と言う。

おっさん ここにおるよぉ・・

そうかぁ おるか・・

安心をした。

はなこぉ と呼ぶ声も日に日に力がなくなってきた。

はなよは耳も遠くなり、すすむも補聴器に頼る。

静かな部屋の空気の中、息遣いだけが聞こえる。

時にはなよの口から賛美歌が流れた。
  


Posted by ゐとの at 06:40Comments(0)

2011年05月15日

はなよ

なぁ はなこ ここにおってもいいんか?

70年数年夫婦で過ごしたすすむが一年半前天国へ行った

おっさん と呼ぶはなよの声

おっさんとの二人っきりの生活が終った

おっさんが きたんよ 後ろ向きですわっとんよ

海のはたの古い部屋だったわ

おっさん 死んどるのになんできたんやろ?


はなよは全盲で、いつもすすむが側にいた

わしが死んだらはなこが困るからなぁ・・わしは死ねん

歩けなくなっても 病室に行くのを拒んだ

顔を見にはなこの処に連れて帰ってもらう時

なぁ はなこ わしここにおってもええんか・・?  

おってもええんよ おっさん

すすむを荼毘にふしたはなよは 日に日に弱っていった

おっさんの一番良い顔の写真を大きく焼いてくれ

はなよは写真を部屋に飾った

アルバム写真を まるで見えるかのように説明してくれた

はなよの人生92年間が終った

すすむが迎えにきたかのように 両手を高く上げて何かを掴むかのようにしていた

5/14
  


Posted by ゐとの at 07:46Comments(0)

2011年05月06日

高知に戻る

高速バスは高知駅に着いた。
商店街のいつもの場所に戻って托鉢をする毎日でした。
ここに立っていれば、さくら達が戻ってきてもすぐにわかるだろう、
見慣れた風景、生まれて初めて托鉢を教えてもらい生きる糧を得た場所で。

大阪に住んでいた頃には考えもつかなかったこと。
長年住み慣れたアパートの荷物を売り払い、今まで貯めてきたお金だけを持ち
四国遍路の旅に出てから半年は過ぎたでしょうか。
若い頃から、お寺参りが好きで友人と仕事の休みにはよく出かけたものでした。
京都 大阪 奈良 四国 そういえば関西大震災の朝も大阪のお寺に参る準備を
していた。
あの朝も 出かけようとしていたら大きな揺れが、友人からの電話でとても行く事はできないと
連絡があった。
その友人も今はいなくなり、私はここに居るんだわ。
何度か訪れた四国、高知は確か祖母の故郷、母が亡くなってからずっと母親代わりに
育ててくれた祖母 継母が来て居場所がなくなりつつあったときも、祖母が守ってくれた。
高校を卒業してから実家には戻ってない。

松山駅で高知行きバスのチケットを買うのに窓口にいた。
大阪から持ってきた荷物は、カート式の鞄と斜めがけの小さな鞄。

チケットの支払いをしてる間に、荷物を入れたカートが盗まれた。
急いで周りを捜し歩いたが、結局出てこなかった。
手にあるのは、高知行きバスの片道チケット一枚と斜めがけの鞄。
働いて貯めたお金と家財道具も売り払った残りのお金はそのカートの中にしっかりと入れていた。
何もない、ただ斜めがけ鞄の中には四万円と少しの小銭があるだけ。
松山駅で居るわけにも行かず、バスに乗る。

高知駅に着いた。
  


Posted by ゐとの at 06:35Comments(0)

2011年05月05日

5月5日の約束

さくらは今日も元気です。
数年前の5月の連休の事。
津田の松原を一足先に出発したさくら達と,高松で会う約束をして再び高知に向かって遍路をする
という予定があった。
5月5日に高松駅で待っていてくれるはずのさくら達がいない。

それから数日間高松駅でさくら達を待った。
けれども、現れない・・もしかしたら津田の松原を先に出たさくら達は体調が悪化して病院にでも
運ばれたのかもしれない・・
 さくらのおとうさんは末期の肺癌でした。
四国遍路途中の徳島を出る手前で、倒れ病院に運ばれましたが、薬をもらって
お寺の近くの小屋で暫く体調を整えて高松に向かう道のりでした。
いろんな思いが頭の中を廻っていく。
さくらはどうしたのだろうか?
もし 途中で倒れてしまっていたら連絡をとる手立てすらない。


十日間ほど托鉢をしながら待ったけれども、結局現れないさくら達でした。
托鉢で貯めたお金で高速バスに乗り、高知に向かいました。
高松では、三越の横や近くのスーパーの前で、さくらのおとうさんに教えてもらった托鉢をして
その日その日を過ごしました。

高知に着いたらきっとさくら達の消息がわかるはず、きっと何か連絡もあるだろうと少しの希望を抱いて
高松を後にしました。














  


Posted by ゐとの at 09:22Comments(0)

2011年05月03日

5月3日の記事


近所に仔犬がきました。
娘さんが妊娠したために飼えなくなったって・

しろって言います。
とてもかわいく小屋の前を通るたびに尻尾を振ってくるのです。

手前に居る猫も近所の猫
しろといつも一緒にいます。

よかったねぇ 飼い主さん優しくてね。  


Posted by ゐとの at 22:13Comments(0)

2011年05月03日

片言での電話

旦那さんが、毎日パチンコに行く
私仕事してお給料もらっても全部旦那さんが使う

もう別れたい でも こどもは渡さないって言う
私 心痛い ・・・・

だんなさんは仕事はしていない、生活保護で暮らししているけれども
毎日子供を保育園に送り、パチンコに行くって・・
昨日は生活保護支給日だったから、お金もらってすぐに出かけて、帰ってきたのが
十時半だったって

朝一番の電話で泣いていた
今 旦那さん 子供つれて散髪行った 
下の子はまだ寝ている
ワタシ モウツカレタヨ ワカレタイナラコドモオイテイケイッタ

暴力はないけれども、言葉の暴力もDVだ・・
昼のパートをして 夜も知り合いのお店で働き、その給料はすべてだんなさんが
管理していると言う
昨日も お前の給料は三万だと言ったという

ココロイタイカラダウゴカナイ ナニモシタクナイ ワカレタイ
 彼女の涙での電話 私は何ができるのか
何をしてあげればよいのか ・・



一週間ほど前 
私の前夫の奥さんから電話がかかって来た
彼女もフィリピン人  前夫は数年前に亡くなったが新しい家族ができたことの報告だった


亡くなった時 この世の終わりかと思われるくらいの嘆きようだった
アナタハイイワヨ
コドモタチガイルデシヨ
ワタシニハカレノコドモモイナイ
ワタシハタッタヒトリダケ

大丈夫 私の娘が言った言葉
私はお父さんの娘だからあなたは私のママよ
彼女は涙の中で抱きついたことを思い出した

前夫の妻は 母国で墓も作り家も建てた
生きていくだけの遺族年金も入るように手続きもできた
彼女の母国の家族は暮らしていける

彼女から時々の近況報告電話もあった
ふらっと高松に大晦日に来た、オショウガツイッショニスゴシタイヨ
娘達も喜ぶ前に驚いたが、一晩を一緒に過ごした
初詣にも行った

彼女が好きな人ができて前夫によく似ている人よって写真を見せてくれた
う~・・似てるというか年が似てるのかなぁぁ 幸せになってね と
別れてから二年過ぎた
まったく連絡がなかったので電話がかかってきたのにはびっくりだった

コドモガウマレタヨ 
オトコノコダヨ

これでやっと日本永住ができる彼女

娘 お父さんのお墓は誰が見てくれるんだろうかなぁ?・・・・



  


Posted by ゐとの at 09:54Comments(0)